2014年11月25日火曜日

ボブ・サイモン【60 MINUTES】チェルノブイリ:終わりのない大惨事

CBS 60 MINUTES
チェルノブイリ:終わりのない大惨事
Chernobyl: The catastrophe that never ended
爆発から30年近く、ボブ・サイモンがウクライナを訪問し、原子炉に殺傷力が残っているのを確認する。
20141123日 ボブ・サイモン Bob Simon
20141123日放送の『チェルノブイリ』をテキストにして掲載する。取材はボブ・サイモン。プロデュースはマイケル・ガヴションおよびデイヴィッド・レヴィン。
終わることのない悲劇というものはある。人に核災害をひとつ挙げてくださいとたずねると、たいがい日本で3年前に勃発したフクシマと答えるだろう。ウクライナのチェルノブイリ核メルトダウンは30年前のできごとだが、危機は今日でもまだわたしたちと共にある。それは、放射能が死滅することが実質的にありえないからだ。ソ連は1986年に爆発したあと、損壊した原子炉を覆う墓標、初歩的な石棺を建造した。だが、長期にわたる耐用は期待できず、じっさいにそうだった。技術者らは、今も広範囲におよぶ汚染を引き起こしうるだけの放射性物質が内部にたっぷり残っているという。5年前から、原子炉を恒久的に封じこめるための巨大規模プロジェクトが進行中である。だが、この事業は資金が75000万ドル(888億円)不足しており、完工期日が繰り返し先延ばしされている。30年後のいまでも、チェルノブイリの廃炉は殺傷力を保っている。
「ゾーン」と呼ばれる地帯に入域することは、境界をわたり、地球上指折りの汚染地に行くことである。20マイル圏内無人地帯は30年前、避難区域になった。今日、ゾーンの中心部に向かって車を走らせると、異界の地に現れたように思える巨大な構造物が見えてくる。それは、世界に類を見たこともないような工学事業である。40か国以上から資金を得て、1400人の作業員らが損傷炉をテーブル料理蓋のように覆うための巨大なアーチを建造している。それは――地球上最大の可動式構造物で――自由の女神像より高く、ヤンキー・スタジアムより幅広くなるはずだ。ニコラス・カイルはアーチ建築工事の監督である。
ボブ・サイモン:あなたにはこの巨大な事業が進行中だとわかっておられる。作業員のみなさんもそうです。30年前のある1日のせいで、何十億規模のドルが使われています。
ニコラス・カイル:はい、はい、そうです。あれは核産業最大の災害でした。

災害は大爆発とともに勃発し、チェルノブイリ4号炉の屋根を吹き飛ばし、大気中の放射能の塵芥を放出した。
ソ連は50万人を超える兵員を召集し、鎮火と核燃料断片の除去にあたらせた。何千人もが放射線被曝による深刻な疾患にかかった。30年後の今日、除染がまだ続いている。
だが、この最新ビデオが示すように、原子炉にはまだ毒物が詰まっている。ねじれた鋼材やコンクリート、核燃料の溶融物の堆積が固まって、「象の足」と呼ばれる密度の高い塊になっているのだ。
今でも非常に高レベルの放射線が原子炉から発散されているので、作業員たちは300メートル近く離れ、巨大なコンクリート壁で遮蔽されて、アーチを建設しなければならない。完成すると、アーチは石棺の周りの場所へと横滑りし、次いで封印されることになる。
ニコラス・カイル:一思いに押していくことになっていまして、平均速度は時速10メートルほどです。まあ、カタツムリ程度のスピードですね。
ボブ・サイモン:なるほど。でも、こいつのサイズを考えると、とても急ピッチだ。
ニコラス・カイル:はい、そのとおりです。
だが、建設工事そのものはもっと急いで進めなければならない。古ぼけた原発と石棺は崩壊しつつある。ちょうど2年前、吹雪のために建屋のひとつの屋根が崩壊し、作業員らは避難を余儀なくされ、さらなる汚染の恐れが高まった。
「恐ろしい光景でした。100200メートル先、距離を置いた落日のように見えました」
放射能に通常の生死のルールは通用しない。実質的に永続するのだ。カイルがわたしたちの施設視察を引率したとき、自分がどれほど被曝したのかを知るための線量計を身につけさせられた。聞きたくもないのに、突然鳴る音。
ボブ・サイモン:ねえ、ビープ音が鳴りそうだ。
ニコラス・カイル:いや、鳴らない。大丈夫だ。
ボブ・サイモン:間違いないか?
ニコラス・カイル:えぇ、きっぱり大丈夫だ。

ニコラス・カイル:チェルノブイリでビープ音は嫌だ。あの音は好きになれない。

このような条件下のアーチ建設工事は、けっこうな難題である。しかし、最大の障害には放射能と関係ないものもある。今年、暴力がウクライナを覆ったとき、アーチ請負企業の一社が撤退した。事業はまた77000万ドルの資金不足を抱え、工事遅延繰り返しの苦境にある。
工事がいつ完成しようとも、ゾーンの広大な土地は回復することがない。ここは原子炉から2マイル、プリピャチの町である。30年前、人口は50,000人だった。いま、ゼロ人である。プリピャチは多くの原発労働者の居住地であり、ソヴィエトの現代性の模範である町に住所があるのは、ありがたいことだった。
この大通りに9階建てのアパートが建ち並んでいた。今でもそこにあるが、見ることはできない。森が占拠したのだ。世界全体が見るはずの光景はおそらく、人びとが消え去った町である。
1986年のあの日、プリピャチは春を迎え、23日後には遊園地が開園することになっていた。当時、アンドレ・グルホフはここに住んでいた。
ボブ・サイモン:では、あの観覧車は子どもを一切乗せていないのですね?
アンドレ・グルホフ:一切乗せていません。あなたの左手にあるバンパーカーも乗せていません。
ボブ・サイモン:あなたのかつての隣人たちと話すとき、あれをどう呼んでいますか?事故? 大災害?
アンドレ・グルホフ:単純に事故発生日、26と呼んでいます。
ボブ・サイモン26ですか?
アンドレ・グルホフ4月の26です。
ボブ・サイモン:アメリカ人が911というようなものですか?
アンドレ・グルホフ:まさしく、そうです。
事故当時、グルホフはチェルノブイリの核安全課で働いていた。彼はわたしたちを施設の破壊されていない一部の視察に案内した。事故の夜、彼は非番だったが、被災した原子炉の脇を車で通るときに目にしたものは、彼が、あるいは誰もが見たこともない光景だった。
アンドレ・グルホフ:これは制御室…)
アンドレ・グルホフ:恐ろしい光景でした。100200メートル先、距離を置いた落日のように見えました。それは原子炉の白熱した炉心だったのです。
ボブ・サイモン:見たのは、それが最初で一度だけですか?
アンドレ・グルホフ:いいえ、あれが、わたしが事故の規模を理解した最初のときだったのです。

グルホフはプリピャチにいる家族に、屋内にいて、窓を閉めておくように言い聞かせた。ソ連当局は地域を秘密主義の網で覆い、何も心配することはないと住民に説いた。だが、36時間後、全員避難のために1,000台を超えるバスが送りこまれた。当局は住民にほんの3日間だけだと――多くの嘘のひとつを――言った。人びとは決して帰還せず、プリピャチは原子に制圧された。いまだに認識可能なもののひとつが、あの古いソヴィエトの肖像である。


ゾーンで車を走らせると、プリピャチと同じ運命に見舞われた村落を多く見かけるだろう。簡単な標識の列がそれぞれの名称を付けられて埋めこまれている。
だが、この荒地のど真ん中に、とびきり奇妙な光景。ほんのわずか、人びとがいる。イワン・イワノビチと彼の妻は事故のあと、キエフ近郊の住宅団地に避難したが、それに我慢できなかった。夫妻は都会向きの人間でなかったので、2年後、戻ってきた。現在、この村に夫妻の他に3人が住んでいる…古い原発からほんの数マイルである。
DNAレベルで起こる遺伝子損傷の幾分かが世代から世代へ伝えられる証拠は確かにあります」
ボブ・サイモン:ここに戻って住むといつ決めたのですか? だれか危険だと言いましたか?
イワン・イワノビチ ここはほんとうに大丈夫です。あのね、団地に住んでいたとき、わたしはいつも病気していました。でも、ここに戻るとよくなりました。あれから、もう5年もいます。
ボブ・サイモン:家を離れるわけにはいきませんね。
イワン・イワノビチ:あちらにいれば、もう逝っていたでしょう。地面の下ですよ。
ティム・ムソーもまた危険であっても、ここにいることを選んだ。これまで15年間、このサウスカロライナ大学の生物学者はゾーン内部に仮設した研究室に陣取って、汚染の影響を研究してきた。
ボブ・サイモン:真面目な研究室で、このようなものをあまり見たことがありません。
ティム・ムソー:たしかに、これは便宜的な研究室です。古い農家です。
ムソーの研究は、大惨事が禍をおよぼしつづけていることを示している。
ティム・ムソー:これらのネズミの放射線量を測定するつもりです。
ボブ・サイモン:この地のネズミと別の場所のネズミの放射線量の違いはどれほどですか?
ティム・ムソー:これらのネズミの何匹かは、清浄地域のネズミに比べて、10,000倍規模の放射能を体内にもっています。
人的犠牲もまた甚大である。甲状腺癌と白血病は――正確な死者数に関しては、いまだ論争中だが――数千人が罹患した。
ティム・ムソーDNAレベルで起こる遺伝子損傷の幾分かが世代から世代へ伝えられる証拠は確かにあります。
ボブ・サイモン:では、核惨事は決して終わっていないのですか?
ティム・ムソー:数百万年とまで言わないでも、数千年間は汚染されている地域が残るでしょう。
このことがゾーンを地球上の他のどの場所とも違う存在にしており、だからツーリストを惹きつけている。パリやローマにいらっしゃったなら、地獄のホリデイはいかがだろう。黙示録を検索してみますか?
ボブ・サイモン:休暇にチェルノブイリへ行くつもりだと話したら、友人のみなさんの反応はいかがでしたか?
ディヴィッド・マクヘイル:非常に変わっていると思っていました。でも、つまり、しばらく前から、人がここに来ていますので、そのう、安全なはずだと考えました。
ボブ・サイモン:あなたは安全だとお考えになっている。なにが後押しして、安全だと信じるようになったのですか?
ディヴィッド・マクヘイル:さて、そうですね、もし安全でなければ、ガイドが人を連れてこないと思いました。
ボブ・サイモン:わかりました。さて、あなたのおっしゃるとおりであれば、いいですね。
ディヴィッド・マクヘイル:わたしもそう思います。
何千人もの労働者が毎日、原発の残骸の面倒を見るためにゾーンのなかへ殺到する。他にも、年間を通してここに、住民にとって安全な数少ない場所のひとつ、チェルノブイリの町それ自体に住んでいる人たちがいる。
イエフゲン・ゴンチャレンコはわたしたちのガイドだった。彼もここに住んでいる。
ボブ・サイモン:あなたがここにお住まいで、キエフにお住いでないのはなぜですか?
イエフゲン・ゴンチャレンコ:ここが好きだからです。わたしにとって非常に面白く、聖なる場所でさえあるのです。
ボブ・サイモン:聖なる場所ですか?
イエフゲン・ゴンチャレンコ:わたしにとって、そうです。
彼は自由時間の多くをベースギターで作曲して過ごしている。彼を取り巻く景観と同じく荒涼たる音楽である。消滅して久しい、この帝国の残骸と同じく荒涼としている。
ここの労働者たちは惨事から10年後、命を奪われた仲間たちを賛える記念碑を建立した。

ボブ・サイモン:作業員たちと消防士たちが自分で記念碑を造ったのですか?
イエフゲン・ゴンチャレンコ:そう、正しくそうです。
ボブ・サイモン:これはなんと書いてありますか?
イエフゲン・ゴンチャレンコ:「世界を救った者たちへ」
ボブ・サイモン:「世界を救った者たちへ」
これはいささか誇大に聞こえる。しかし、1986年に原子炉が爆発したとき、放射能を帯びた塵芥や破片は遠くイタリアやスウェーデンまで運ばれたのだ。アーチが壊れた原子炉を最終的に封印するまで、しかもその時期がいつになるか、だれにもわからず、このようなことは、いつでも起こるかもしれない。チェルノブイリは他の歴史的遺物と違って、過去に属していない。その力は決して死滅しない。チェルノブイリは永遠なのだ。
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ボブ・サイモンは1960年代末から現在まで海外の主要な紛争とニュース記事を報道してきた屈指のエリート・ジャーナリストである。1996年以来、60 Minutesに寄稿している。

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